深海の音:水中騒音・クジラの音響通信・船舶騒音が海洋生態系に与える影響

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深海の音

深海へ向かう小型潜水艇を想像してみてください。

海面から遠ざかるにつれて、太陽の光は少しずつ弱くなっていきます。

青かった海はやがて濃い紺色へ変わり、最後には窓の外がほとんど見えなくなります。

波の音も、風の音も、人の声も届きません。

潜水艇の照明まで消せば、そこには完全な暗闇と静寂だけが残っているように感じられるでしょう。

ところが、船体の外に取り付けた**ハイドロフォン(水中マイク)**の音声を再生すると、深海の印象は一変します。

遠くを航行する大型船の低い振動音。

長く伸びるクジラの鳴き声。

魚が太鼓をたたくように発する音。

甲殻類が生み出す鋭い破裂音。

さらに、海底地震や海底火山による低周波の振動まで記録されることがあります。

深海は、最初から静かだったわけではありません。

私たち人間が、海の音をそのまま聞くことに慣れていなかっただけなのです。

海中には、生物が発する音、波や地震が生み出す自然音、そして船舶や工事による人工音が重なっています。

これらが作り出す音の環境を、海洋音響学では**サウンドスケープ(音響景観)**と呼びます。

この記事では、深海の音がどこから生まれるのか、なぜ水中では音が遠くまで届くのか、そしてクジラや魚が音をどのように利用しているのかを詳しく見ていきます。

さらに、船舶騒音、軍事・調査用ソナー、海底工事、資源探査などによる水中騒音が、海洋生態系にどのような影響を与えるのかも実例とともに解説します。


深海は本当に静かな場所なのでしょうか

深海は都市や道路、空港から遠く離れています。

そのため、私たちは無意識のうちに「深い海=静かな世界」と考えがちです。

しかし、海洋科学の視点では、海は常にさまざまな音で満たされています。

海洋のサウンドスケープは、大きく三つに分類できます。

  • 生物音(Biophony):クジラ、イルカ、魚、エビなどが発する音
  • 自然環境音(Geophony):波、雨、嵐、地震、火山、海氷などが生む音
  • 人工音(Anthrophony):船舶、ソナー、海底工事、掘削などによる音

南のサンゴ礁では、テッポウエビの細かな破裂音が絶え間なく響いています。

北太平洋の航路付近では、大型船の低周波音が背景を覆うことがあります。

北海道周辺やオホーツク海のように流氷が見られる海では、氷が割れたり、こすれたりする音も重要な環境音になります。

つまり、海には地域ごとに異なる「音の個性」があります。

研究者はその音を分析することで、クジラがいつ通過したのか、魚が産卵しているのか、船が何隻通ったのか、海底で地震や工事が起きたのかを調べられます。

水中カメラが映せる範囲は限られていますが、音はカメラよりはるかに遠くから届きます。

その意味でハイドロフォンは、暗い海を音で監視する観測装置だといえるでしょう。


水中ではなぜ音が遠くまで伝わるのか

光と音は、海中でまったく異なる動きをします。

太陽光は水に吸収され、深くなるほど急速に弱くなります。

赤い光は比較的浅い場所で失われ、続いてオレンジ、黄色などの波長も届かなくなります。

水深およそ1,000メートルを超える深海では、生物発光や人工照明を除けば、ほぼ完全な暗闇です。

一方、音は水中を効率よく進みます。

音とは、物質の中を伝わる圧力の波です。

水は空気より密度が高く、分子同士の距離も近いため、振動が比較的速く伝達されます。

海水中の音速は一般的に毎秒約1,500メートルです。

空気中の音速が毎秒約340メートルなので、水中では音が4倍以上速く進むことになります。

ただし、海中の音速は常に一定ではありません。

主に次の三つの要素によって変わります。

  • 水温
  • 塩分
  • 水圧

水温が高いほど音速は速くなる傾向があります。

また、深海では水圧が高まるため、音速も再び上昇します。

こうした条件の違いによって、音波は曲がったり、反射したり、特定の水深に閉じ込められたりします。

光がほとんどない深海では、音が周囲を知るための重要な手掛かりになります。

クジラは仲間との通信に音を使い、イルカやマッコウクジラは反射音から獲物の位置を読み取ります。

魚は産卵場所を見つけたり、群れを維持したり、外敵の接近を察知したりするために音を利用しています。

深海の音は、単なる背景音ではありません。

生命が生き残るための情報そのものなのです。


SOFARチャネル|海中にある「音の高速道路」

海洋音響学で重要な概念の一つが、SOFARチャネルです。

正式にはSound Fixing and Ranging Channelと呼ばれ、日本語では深海音波チャネルなどと表現されます。

海面から深くなるにつれて、まず水温が下がります。

水温の低下は音速を遅くする方向に働きます。

しかし、さらに深くなると水圧の影響が強まり、音速は再び上昇します。

その間に、音速が最も遅くなる水深帯が生まれます。

この層に入った音は、上下の音速が速い水域との境界で繰り返し屈折します。

音が海面や海底へ逃げにくくなり、チャネルの中央付近を水平方向へ長距離移動するのです。

地域によって深さは異なりますが、SOFARチャネルは水深数百メートルから1,000メートルを超える場所に形成されることがあります。

この深さにハイドロフォンを設置すると、遠く離れたクジラの声、海底地震、海底火山、爆発などの音を捉えられます。

たとえるなら、SOFARチャネルは海中に存在する見えない音響トンネルです。

トンネルに入った音は、自由に広がる場合よりエネルギーを失いにくく、時には海盆を越えるほど遠くまで届きます。


深海ではどのような音が生まれているのか

海底地震と海底火山が生む低周波音

海底は静止しているように見えますが、実際には絶えず変化しています。

プレートは互いに押し合い、離れ、横方向へずれています。

海底火山の地下ではマグマが動き、断層が破壊され、海底斜面では地滑りが起こります。

こうした現象で生じた振動は、海水へ伝わって低周波の音になります。

複数のハイドロフォンで同じ信号を観測し、到達時間の差を比較すれば、音が発生した場所を推定できます。

信号の周波数や長さ、強さを解析することで、地震なのか、火山活動なのか、海底地滑りなのかを判断する手掛かりにもなります。

そのため水中音響観測は、海洋生物学だけでなく、地震学、火山学、防災研究でも活用されています。

日本は四方を海に囲まれ、海底地震や津波への関心が非常に高い国です。

海の音を観測する技術は、深海生物の研究だけでなく、海底の変化を理解するためにも重要なのです。

波、雨、台風、流氷が作る音

深海であっても、海面で起きる現象の影響を完全に受けないわけではありません。

風が強くなれば波が発生し、砕けた波が気泡を水中へ巻き込みます。

この気泡が振動することで、幅広い周波数の音が生まれます。

激しい雨では、無数の雨粒が海面をたたきます。

台風が近づけば、広い海域で背景騒音が大きく上昇することもあります。

寒冷海域では、海氷や氷山の音も加わります。

氷が割れる音、氷同士がぶつかる音、海底に接触してこすれる音などは、水中を遠くまで伝わります。

長期間の音響記録を調べることで、季節の変化、嵐の発生、流氷の移動などを把握することもできます。


小さくても騒がしいテッポウエビ

海で特に意外な大音量を生み出す生物が、テッポウエビです。

テッポウエビには、左右で大きさの異なるハサミがあります。

大きなハサミを高速で閉じると、強い水流が発生します。

その瞬間、周囲の水圧が急低下し、水中に小さな蒸気の泡ができます。

この現象を**キャビテーション(空洞現象)**と呼びます。

泡はすぐに崩壊し、短く鋭い衝撃音を発生させます。

テッポウエビはこの衝撃を使って小さな獲物を弱らせたり、縄張りを守ったり、ほかの個体と合図を交わしたりします。

一匹の音は一瞬です。

しかし、多数のテッポウエビが暮らす海域では、パチパチ、バチバチという音が絶え間なく続きます。

古いラジオの雑音や、フライパンで食材を炒める音に似て聞こえることもあります。

沖縄などの温暖なサンゴ礁海域では、テッポウエビの音が水中の主要な背景音になることもあります。

なお、水中のデシベルと空気中のデシベルは、基準となる音圧が異なります。

数値だけを見て「飛行機より大きい」などと単純比較することはできません。


クジラにとって海は「音で見る世界」

クジラは、ただ鳴いているのではありません。

音を使って周囲の世界を理解しています。

シロナガスクジラ、ナガスクジラ、ザトウクジラ、セミクジラなどのヒゲクジラ類は、比較的低い周波数の声を発します。

低周波音は高周波音より減衰しにくく、遠距離通信に適しています。

こうした声は、離れた仲間との連絡、繁殖相手へのアピール、移動時の位置確認などに利用されていると考えられています。

一方、イルカ、シャチ、マッコウクジラなどのハクジラ類は、高い周波数のクリック音を使います。

自分が発した音が物体に当たり、反射して戻ってくるまでの時間や強さを読み取る方法です。

この能力を**反響定位(エコーロケーション)**と呼びます。

暗い部屋を懐中電灯で照らす行為に似ていますが、光ではなく音を使います。

戻ってきた反射音から、獲物までの距離、方向、大きさ、動きなどを推測できます。

完全な暗闇でイカを追うマッコウクジラにとって、反響定位はなくてはならない感覚です。

濁った沿岸域でサケを探すシャチにとっても、獲物から返ってくる小さな反射音は重要な手掛かりになります。

クジラの声はどこまで届くのでしょうか

距離を一つの数字で示すことはできません。

クジラの種類、声の周波数、音の強さ、水温、海の深さ、海底地形、波、背景騒音によって伝達距離は大きく変わります。

条件が良ければ、ヒゲクジラの低周波音が数百キロメートル離れた観測装置で記録される場合があります。

SOFARチャネルにうまく入れば、さらに遠くへ届く可能性もあります。

ただし、高性能な観測機器で信号を検出できることと、別のクジラが意味のある声として聞き取れることは同じではありません。

機械が微弱な信号を拾えても、動物がその内容を認識できるとは限らないからです。


魚も音を出し、音を聞いている

魚は無言の生き物という印象がありますが、実際には多くの魚が音を発します。

浮き袋の周辺にある筋肉を素早く動かし、太鼓のような音を出す魚もいます。

歯や骨をこすり合わせたり、ひれの棘を動かしたりして音を作る種類もいます。

魚の音にはさまざまな目的があります。

音を使う目的主な役割よく見られる場面
求愛・繁殖異性を呼び、繁殖可能な状態を伝える産卵期や集団産卵
縄張り防衛他個体へ接近禁止を知らせる巣や隠れ家の周辺
群れの維持仲間の位置や移動方向を確認する夜間移動や回遊
危険の察知捕食者や急な異変に反応する外敵が接近した場面
生息地選択サンゴ礁や沿岸環境を見つける稚魚が定着する時期

海中を漂う稚魚にとって、健康なサンゴ礁の音は目的地を知らせる案内板のような役割を果たすことがあります。

魚、エビ、その他の生物が作る音を聞き分け、成長に適した場所へ向かうのです。

しかし、船舶などの人工音がその信号を覆えば、稚魚が適切な生息地を見つけにくくなる可能性があります。

水中騒音はクジラだけの問題ではありません。

魚類の繁殖、移動、捕食者回避、さらには海洋の食物網全体にも関係する問題なのです。


自然音と人間が作る水中騒音の違い

海は昔から音のある環境でした。

したがって問題は、人間が静かな海へ初めて音を持ち込んだことではありません。

人間活動による音が、長時間、広い範囲で、繰り返し自然のサウンドスケープを変化させることが問題です。

音の種類主な発生源音響的な特徴生態系への役割・影響
生物音クジラ、イルカ、魚、エビ種ごとに異なる周波数とリズム通信、繁殖、捕食、移動
地質音地震、火山、海底地滑り低周波や衝撃的な信号自然環境の情報
気象音雨、波、台風、海氷天候や季節で変化自然の背景音
船舶騒音エンジン、プロペラ、機械持続的な低周波音が多い生物の信号を覆う可能性
海底工事杭打ち、掘削、浚渫反復する衝撃音と振動回避行動やストレス
資源探査エアガン、弾性波探査強いパルス音を反復広範囲に伝わる可能性
アクティブソナー軍事・調査用装置特定周波数の強い信号条件により行動変化

嵐はいずれ通り過ぎます。

地震の強い振動も、いつかは収まります。

クジラの声にも始まりと終わりがあります。

しかし、大型船が頻繁に通過する航路では、低周波の騒音が昼夜を問わず続くことがあります。

日本は海上輸送への依存度が高く、東京湾、伊勢湾、大阪湾、瀬戸内海などには多くの船舶が行き交います。

そのため船舶騒音は、日本人にとっても決して遠い海の問題ではありません。


大型船はなぜ水中で大きな音を出すのか

船の音は、エンジンだけから発生するわけではありません。

ディーゼルエンジン、発電機、ポンプ、船内機械が振動し、その振動が船体を通して水中へ伝わります。

船体周辺を流れる海水の乱れも音を生みます。

なかでも重要なのが、プロペラで発生するキャビテーションです。

プロペラが高速回転すると、羽根の周辺で水圧が急低下します。

すると小さな蒸気泡が形成され、すぐに崩壊します。

この泡の生成と崩壊が繰り返されることで、広い周波数帯の水中騒音が発生します。

原理だけを見るとテッポウエビのキャビテーションに似ていますが、船舶では大型機械によって連続的に起こります。

プロペラの損傷、船底に付着した貝類や藻類、不適切な設計、高すぎる航行速度は、振動やキャビテーションを増やす可能性があります。

そのため、船を静かにすることは必ずしも海上輸送を止めることではありません。

船体やプロペラの設計改善、定期整備、適切な速度管理によって、水中放射騒音を減らせる余地があります。


実例|船舶の減速でシャチに届く騒音が約半分に

米国ワシントン州とカナダのブリティッシュコロンビア州周辺には、絶滅が危惧されるサザンレジデント・シャチが生息しています。

このシャチの群れは、主にチヌークサーモンを食べます。

獲物を探す際には反響定位を利用しますが、この海域にはシアトル、タコマ、バンクーバーなどの大きな港があり、多数の貨物船が通過します。

船舶のエンジン音やプロペラ音が強いと、サケから返ってくる微弱な反射音が聞こえにくくなる可能性があります。

そこで実施されたのが、大型船に速度低下を促す自主的な減速プログラムです。

NOAAが紹介した評価では、多くの参加船が実際に減速し、シャチに届く水中騒音が約半分に減少しました。

この事例が重要なのは、水中騒音が避けられない公害ではないことを示した点です。

特定の海域や季節に速度を少し落とすだけでも、音響環境を大きく改善できる可能性があります。

船の種類や運航条件によって効果は異なりますが、減速は衝突事故のリスクや燃料消費を抑える点でも検討価値があります。


船舶騒音はシャチの狩りも妨げる

水中騒音の問題は、クジラ同士の声が聞こえにくくなることだけではありません。

シャチが発したクリック音は、魚に当たって反射し、弱い信号として戻ってきます。

周囲の騒音が大きければ、この小さな反射音が背景音に埋もれてしまいます。

これを音響マスキングと呼びます。

にぎやかな飲食店で、目の前の人の声が聞き取りにくくなる状況を思い浮かべると分かりやすいでしょう。

相手は話していても、周囲の音によって内容を判別できる距離が短くなります。

シャチはクリック音を強くしたり、探索時間を延ばしたり、騒音源から離れたりすることで対応する可能性があります。

しかし、こうした行動には追加のエネルギーが必要です。

同じ一匹の魚を捕らえるために、以前より長く泳ぎ、何度も音を発しなければならないとすれば、騒音は実質的なエネルギー負担になります。

餌不足や汚染など、ほかの問題も抱える絶滅危惧個体群にとって、この負担は軽視できません。


人間活動が減ると海は本当に静かになった

新型コロナウイルス感染症の流行初期には、一部の地域で船舶、観光、海洋工事などの活動が減少しました。

研究者にとっては、通常では観察しにくい「人間活動が少ない海」を記録する機会になりました。

長期観測用ハイドロフォンの記録を比較すると、一部の観測地点では水中の背景騒音が実際に低下していました。

変化は数デシベル程度の場所もありましたが、デシベルは対数尺度です。

数字がわずかに見えても、音響エネルギーとしては無視できない差になる場合があります。

この自然実験は、現代の海のサウンドスケープの相当部分が人間活動と結び付いていることを示しました。

同時に、人間側の行動が変われば、海の音響環境も比較的早く変化し得ることを教えてくれます。


水中騒音が海洋生物へ与える主な影響

水中音の影響は、単に音量だけで判断できません。

研究では、次の条件を一緒に検討する必要があります。

  • 周波数
  • 音が続く時間
  • 繰り返される回数
  • 音源からの距離
  • 水深と海底地形
  • 生物ごとの聴覚範囲
  • 採餌中、繁殖中、移動中などの行動状態

音響マスキング

音響マスキングとは、背景騒音が重要な生物信号と重なり、聞き分けにくくなる現象です。

クジラでは通信距離が短くなったり、反響定位の精度が下がったりする可能性があります。

魚では求愛音、仲間の声、捕食者の音、サンゴ礁の環境音などが聞こえにくくなります。

信号そのものが消えたわけではありません。

周囲の音に隠され、意味のある情報として認識しにくくなるのです。

行動変化と生息地からの回避

突然の大きな音を聞いた動物は、採餌を中断したり、泳ぐ方向や潜水パターンを変えたり、音源から離れたりすることがあります。

一時的に場所を離れるだけなら、必ずしも深刻な影響とは限りません。

しかし、重要な餌場、繁殖地、回遊ルート、稚魚の育成場から何度も追い出される状況が続けば、生存や繁殖に影響する可能性があります。

ストレスとエネルギー消費

騒音環境に対応するため、動物がより大きな声を出したり、周波数を変えたり、信号を何度も繰り返したりすることがあります。

餌を探す時間が長くなる場合もあります。

これらの行動にはエネルギーが必要です。

慢性的な騒音が続けば、成長、繁殖、免疫、子育てに使えるエネルギーが減少する可能性も考えられます。

一時的・永久的な聴覚への影響

非常に強い音を近距離で聞いた場合、一時的に聴力が低下したり、条件によっては永久的な損傷が起きたりする可能性があります。

影響の程度は、音の強さ、周波数、継続時間、生物の聴覚特性によって異なります。

杭打ちや弾性波探査のような衝撃音と、船舶の連続騒音では性質が異なるため、同じ基準で単純に評価することはできません。


考えてみると簡単ではない水中騒音の問題

このテーマを調べながら、何度も一つの疑問に戻りました。

嵐や地震、流氷、テッポウエビも大きな音を出しているのに、なぜ人間の音だけを問題にするのでしょうか。

答えは「自然音はすべて良く、人工音はすべて悪い」という単純なものではありません。

自然音は、海洋生物が長い進化の歴史の中で経験してきた環境の一部です。

季節、地域、生物の活動周期などに応じた一定のパターンもあります。

一方、船舶航路や海底工事の音は、同じ場所で何時間、何日、場合によっては何年も続くことがあります。

動物が食事や通信のために静かな時間を選びたくても、その時間が残されていない可能性があります。

結局のところ問題は、海に音があるかどうかではありません。

生物が頼ってきた音の空間を、どれほど広く、頻繁に、長期間変えてしまうかにあります。

一行ポイント|水中騒音を比較するときは、デシベルだけでなく、周波数・継続時間・測定距離・基準音圧も確認しましょう。


ハイドロフォン|研究者は海の音をどう聞くのか

ハイドロフォンは、水中の圧力変化を電気信号へ変換する装置です。

簡単にいえば、水中用の高感度マイクです。

ブイから吊り下げるタイプ、海底に固定するタイプ、自律型無人潜水機に搭載するタイプなどがあります。

複数のハイドロフォンが同じ音を記録した場合、それぞれの装置に届いた時間差から音源の位置を推定できます。

周囲の音を自ら発信せず、ただ記録する方法を**受動音響モニタリング(Passive Acoustic Monitoring:PAM)**と呼びます。

「受動」と呼ばれるのは、装置から音波を出さず、海にすでに存在する音を聞くだけだからです。

PAMでは、次のような情報を調べられます。

  • クジラやイルカが現れた時期
  • 季節ごとの回遊パターン
  • 魚の産卵活動
  • 船舶の通過頻度
  • 海底地震や火山活動
  • 海氷や氷山の亀裂
  • 海底工事や資源探査の実施状況

深海は暗く、広く、動物と出会える時期も予測しにくい場所です。

研究船が現場を離れたあとも、ハイドロフォンは長期間にわたって海を聞き続けることができます。


受動音響観測とアクティブソナーの違い

受動音響モニタリングは、海に存在する音を聞く技術です。

これに対してアクティブソナーは、装置から音波を発信し、対象物から戻ってきた反射音を分析します。

比較項目受動音響モニタリングアクティブソナー
基本方式周囲にある音を受信する音波を発信して反射音を受信する
主な装置ハイドロフォン、海底録音機魚群探知機、マルチビームソナー
長所生物への刺激が少なく長期観測向き距離、方向、海底形状を測定できる
短所音を出さない対象は見つけにくい出力や周波数により影響評価が必要
主な用途クジラ観測、船舶騒音調査海底地形調査、航行、対象物探知

マルチビームソナーは、複数方向へ音波を送り、海底から戻ってくるまでの時間を測ります。

このデータを組み合わせることで、海底の山、谷、海溝などを立体的に描けます。

日本周辺の海底地形や海溝、海底火山を調査するうえでも、音響測深は欠かせない技術です。

ただし、ここには難しい面もあります。

音は海を知るための最も重要な道具であると同時に、使い方によっては生物へ影響を与える可能性があるからです。


深海の音響研究が重要な理由

カメラで見逃す生物を長期間観察できる

深海は広大で暗く、水中カメラが撮影できる範囲はごく一部です。

一方、音は遠くまで伝わります。

ハイドロフォン一台でも、カメラより広い範囲にいるクジラや魚の存在を把握できる可能性があります。

海洋生態系の健康状態を評価できる

健康なサンゴ礁や沿岸生態系では、魚や甲殻類による複雑な生物音が聞かれます。

魚の合唱が減少したり、テッポウエビの音が弱くなったり、船舶音が急増したりすれば、環境変化を示す手掛かりになります。

海のサウンドスケープは、海洋生態系へ当てる聴診器のようなものだといえるでしょう。

海底災害と地質活動を監視できる

ハイドロフォンは、遠隔地で起きた海底地震、火山噴火、海底地滑りの音を検出できます。

これらの記録はプレート運動の理解を深め、防災や早期警戒の研究にも役立ちます。

洋上風力や海底開発の環境影響を調べられる

洋上風力発電の基礎工事、海底ケーブルの敷設、港湾の浚渫、資源探査などでは水中音が発生します。

工事の前、実施中、終了後にサウンドスケープを記録すれば、音がどこまで広がったのか、生物が離れたのか、終了後に戻ってきたのかを比較できます。

日本でも洋上風力発電の導入拡大が進んでいるため、海洋生物と音の問題は今後さらに重要になるでしょう。


水中騒音を減らすための現実的な方法

人間が作る水中音を、すべてなくすことは現実的ではありません。

世界の物流は船舶に支えられています。

ソナーは航行、安全管理、救助、漁業調査、海底地図の作成に必要です。

海底インフラや洋上設備の建設も続くでしょう。

そのため目標は、必要な活動を維持しながら、不要な音を減らすことです。

船舶速度を適切に管理する

速度を下げると、プロペラの回転やキャビテーションが抑えられ、水中放射騒音が低下する可能性があります。

クジラの回遊期や重要な餌場で、期間限定の減速を行う方法も考えられます。

プロペラと船底を整備する

傷ついたプロペラや船底に付着した生物は、水流を乱して振動やキャビテーションを増加させます。

定期的な点検と清掃は、騒音だけでなく燃費の改善にも役立つ可能性があります。

生態的に重要な海域を避ける

航路をクジラの繁殖地、餌場、回遊ルートから離せば、海上輸送を完全に止めずに騒音への曝露を減らせます。

低騒音の工法を利用する

海底の杭打ち工事では、工事地点を気泡の壁で囲むバブルカーテンが利用されることがあります。

気泡が音を吸収・散乱させ、周囲へ伝わる衝撃音を弱める仕組みです。

魚の産卵期やクジラの回遊期を避けて工事を行う方法もあります。

リアルタイムで海洋生物を監視する

工事現場周辺にハイドロフォンを設置し、クジラの声をリアルタイムで検出することもできます。

動物が安全区域へ接近した場合、作業を延期したり、出力を下げたり、一時停止したりする判断が可能になります。


深海の音を聞く技術は、クジラの鳴き声や船舶騒音を記録するだけのものではありません。

ハイドロフォン、ソナー、自律型無人潜水機、深海カメラなどの装置は、人間が長時間とどまれない海域を代わりに観測し、未知の生物や海底地形の変化を少しずつ明らかにしています。

人類は月や火星の表面を詳細に撮影している一方で、地球の海底については、今も十分に分かっていない場所が多く残されています。

強い水圧、完全な暗闇、通信の難しさ、そして高額な調査費用のため、深海探査は宇宙探査に匹敵するほど難しいからです。

こうした未知の海域には、独自の生態系だけでなく、熱水噴出孔、マンガン団塊、レアアースなどの資源も存在します。

これらは科学や産業に新しい可能性をもたらす一方で、開発による生態系の破壊や水中騒音といった問題も考えなければなりません。

深海探査を支える技術、まだ発見されていない生命、海底資源の価値についてさらに知りたい方は、深海探査技術と未知の生態系|宇宙より知られていない海の謎と海底資源 もあわせてご覧ください。


コリの考え

深海と聞くと、私たちはまず暗闇を思い浮かべます。

けれども暗いことは、何も存在しないことではありません。

そして、静かであることでもありません。

クジラの声、魚の太鼓音、テッポウエビの破裂音、流氷の亀裂、遠くの台風、海底下の地殻活動。

それぞれの音が水中を進み、海の状態や生命の存在を伝えています。

海洋生物は、何百万年もの時間をかけて、この音の世界に適応してきました。

人間が海を利用すること自体が問題なのではありません。

エンジンやプロペラ、ソナー、工事の音があまりにも長く続き、生物が通信し、狩りをし、移動し、休むための音響空間まで失われることが問題なのだと思います。

すべての船を止めることも、海洋調査技術を捨てることもできません。

それでも、静かなプロペラを設計し、船を適切に整備し、重要な海域では速度を落とし、繁殖期や回遊期を避けることはできます。

船舶減速プログラムの実例は、革新的な新技術を待たなくても、海の騒音を減らせる場合があると教えてくれます。

深海は沈黙している世界ではありません。

私たちが、その声を聞き始めたばかりなのです。

これからの海洋開発では、海からどれだけ多くの資源や利益を得られるかだけではなく、もともとそこにあった生命の声をどれだけ残せるかも考える必要があるでしょう。


よくある質問

Q1. 深海は本当に騒がしいのでしょうか?

はい。深海にはクジラ、魚、甲殻類などが発する生物音があります。さらに、海底地震、海底火山、嵐、波、海氷の移動による自然音も存在します。船舶、ソナー、海底工事、資源探査などによる人工的な水中騒音も、海のサウンドスケープを構成しています。

Q2. クジラはなぜ音に強く依存しているのですか?

深い海や濁った海では光が急速に失われますが、音は比較的遠くまで伝わります。クジラは音を使って仲間と通信し、移動し、餌を探し、社会的なつながりを維持し、外敵や障害物を察知します。イルカやマッコウクジラなどのハクジラ類は、反響定位を使って周囲の環境を把握します。

Q3. 船舶騒音は海洋生物にどのような影響を与えますか?

船舶騒音はクジラや魚の信号を覆い、通信、採餌、繁殖、生息地選択を難しくする可能性があります。長期間または強い騒音にさらされると、行動変化、ストレス、生息地からの回避が起こる場合があります。曝露条件によっては、一時的または永久的な聴覚への影響も懸念されます。


参考資料

  • NOAA Fisheries, Ocean Noise
  • NOAA Fisheries, Understanding Sound in the Ocean
  • NOAA Fisheries, Sounds in the Ocean: Environmental and Anthropogenic
  • NOAA Ocean Service, What Is the SOFAR Channel?
  • NOAA Fisheries, A Whale’s World of Sound
  • NOAA Fisheries, Quiet Sound’s Voluntary Ship Slowdown Reduces Underwater Noise Reaching Killer Whales
  • NOAA Fisheries, Why Can’t Killer Whales Find and Capture Food? Is the Ocean Too Noisy?
  • NOAA Research, A Rare Glimpse of a Quieter Ocean
  • Discovery of Sound in the Sea, What Are Common Underwater Sounds?
  • Discovery of Sound in the Sea, Snapping Shrimp
  • Woods Hole Oceanographic Institution, Autonomous Hydrophone Array
  • Woods Hole Oceanographic Institution, Multibeam Bathymetry
  • International Maritime Organization, Revised Guidelines for the Reduction of Underwater Radiated Noise from Shipping

深海の音 深海にはクジラの声、生物の信号、海底の振動、船舶騒音が重なり合う巨大な水中サウンドスケープが広がっています。
深海の音 深海にはクジラの声、生物の信号、海底の振動、船舶騒音が重なり合う巨大な水中サウンドスケープが広がっています。

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